「人間嫌い」が「やさしさとは何か」を問う

傍らでヘルパーとして生業する都合で、どうしても「やさしさとは何か」を、自ら問うことがある。
人にやさしくするとはどういうことか。

福祉に関わって、ヘルパーなんぞをしていると、しばしば「人間が好き」な人だと誤解されるが、私はこの仕事をすればするほど、自分がいかに「人間嫌い」であるかを痛感する。

身勝手で傲慢で無知で放埒な、人間どもなんぞ、死ねばいいのである。滅んでしまえばいいのである。

出会う人に恵まれた人というのは、どうも「人間が好き」な人が多いようだ。「人間が好き」だと言える人は、一体何を考えているのだろう。
私もどちらかというと、出会いには恵まれた方かもしれないが、「人間が好き」だと言えるほどには恵まれていないというのが実感である。

ところで私は、こんなにも「人間嫌い」なのに、よくヘルパーなんぞをしている。手近に、仕事を選ばなければ就けるというだけで、あれよあれよという間に巻き込まれた職種であって、特に「ありがとうって言ってもらいたい」とか「人と触れ合うとホッとする」などとは、思いも寄らなかった。

ただ、「人間嫌い」でありながら、私は根っから生真面目な性分だったと思う。不真面目な輩、正しくないこと、道理に外れた行いを、心の底から軽蔑している。
私が出会った相手を気に入ったり、好意を持ったりする時、私はその相手の中の「正しさ」を愛している。
「人間嫌い」の私が、何気に巧いこと渡世できているのは、私の性根のこの生真面目さに依るものだと思う。

それにしても、「やさしさとは何か」。

幸いに、私の根底の「人間嫌い」は、人に押し付けがましくしないやさしさとして受け入れられ、よく私は「さっぱりとした」人だと評され、ひょっとしたら「人間嫌い」も悪くないものだと思うのである。
さりとて、「人間嫌い」の私のそれは、「人間が好き」な人のやさしさには適わない。あんな風にはなれない。あれを目指すべきかどうか、それすらも今はわからない。

と、そうして私が「人間が嫌いだ」という話をすると、「嫌よ嫌よも好きのうち」だと言う人がいるのだが、はっきり言って、その「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉が、私は大嫌いなのである。
「嫌」は嫌であって、「好き」とは違うでしょ。別物。

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