病気が出かかっているようなので

ある日、高齢の利用者と、辺野古の米軍基地移設の問題で激論を交わした。
利用者は米軍属国化容認で「現実的ではない」と言い、私は「どっちが、何が現実か」と言う。
全てを俎上に載せて語り尽くすには時間が無い。しかし、これを論破する言葉をきちんと持っていないとダメだと、その時痛感した。

私がなぜ、揺れる沖縄を眺めるのかというと、

「若い皆さん、子供たちごめんなさいと思う」

と言って闘う年寄りに共感したからである。
こういう人を応援したいと思った。
こういう人に勝利の力を注ぎたいと思った。

私が基地に反対するそもそもの理由は、そういうことなのだ。

そして、自分だけ楽して往生したいような老害は、とっとと往ねばいい。
私も、こういった老害どもの同調圧力のせいで、ゆくゆくは「ごめんなさい」などと思うようになり、「ごめんなさい」の言葉だけで済ませるのかと思うと、どうにも、美意識のレベルで耐えられない。
もしも私が金持ちならば、今は沖縄に行って、やっさもっさして帰ってくるのだが、世の中ウマいこと、私にはそんな余裕が無いようにできている。

それでも、日米地位協定という暴力の前にオノレの魂ごと無化させてしまったような老害どもを、短時間で論破する術もない。
思考が深まらないために溜まるストレスがある。
言語化できない、観念の構築ができない、表出できない、…別に言い方は色々あるが、このところ、この不明瞭な思いのもやもやを、何としたことか。

それと最近、日本語の文章を目で追っても、なかなか頭に入らない。これはちょっと私、「病気が出かかって」いるなと思う。
実はこれだけ長い間ブログをやっているが、その間にも「病気が出かかって」、マトモに字面を追えないことは何度もあった。それをどうにか誤魔化しながら、怪しまれないように振る舞って生きている。
思い起こせば、高校時代は大変だった。本当に、勉強どころではなかった。あの頃は、授業やテストがあって、今のように誤魔化しが効かなかった。

こう煮詰まると、思い切った打開策が要るなと、思いついたのは、「英語で日記をつける」()だった。
私の中の母語がマンネリ化して、無限ループにハマっているのだと思う。
考え方の癖にアレンジを加えて刺激すれば、病気がマシになるような気がした。

ただ、何ら根拠の無い自信に満ちて、私がアウトプットする英語が、あっているのか、間違っているのか、伝わるのか、それはまったくわからない。

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