『幸せのありか』



『幸せのありか』という映画を観てきた。いわゆる、障害者「あるあるネタ」の詰まった映画だった。
ポスターや予告編を観て、この主役の脳性マヒの青年は、ガチで脳性マヒの人を起用したのだろうと思っていたら、ポーランドの気鋭のイケメン俳優だった。やられた。巧すぎて、騙された。『学校III』で自閉症の少年を演じた黒田勇樹君以来だ。

「障害者の振る舞い」の「モノマネ」をすることは、ふつう、躊躇する。それ、やってええんか、と思う。しかしそれを言うと、『エレファントマン』を演じたジョン・ハートとか、どうなのよ、という話にもなる。
役者の「芝居」はモノマネであってはならない。芝居とモノマネの線引きは…、確かそのあたりの理論も、昔演劇論の授業で聞いたような気がするが、ともかく。

普段の会話の中で、付き合いのある障害者の話をすると、「聞くのが辛い」「痛々しい」と言われて、そんな感覚を随分昔に通り越してしまった自分に、はたと気づくことがある。あの「痛々しい」止まりの理解は、ヒドいと思う。

しかし実際、この映画の中でマテウシュ青年は、メタリカの『ONE』()ともダブる境遇とも思える。「僕は植物じゃない!」と二十六年抱え続けた思いを、ようやく母親に伝えることができたマテウシュ青年は、やはり痛々しい。伝えたかった思いが「僕は植物じゃない!」だもの。二十六年経って「僕は植物じゃない!」と言わねばならない境遇は、確かに傍目に痛々しい。
けれど同時に、「僕は植物じゃない!」が、ようやく周りの人に伝わった瞬間、観ていて本当に「よかった」とホッとするのである。



平たく相対化してしまうと、コミュニケーションが上手くいかないイラ立ちは、いたるところにある。松任谷由実も「♪人はみな海流の中の島々」と歌っていたように、障害者に限らず、皆それぞれが分断されていて、勝手に相手のことをわかったつもりになっていることは多い。そして自分の無理解を棚にあげて、勝手に相手を想ったり責めたりする。
共感しあえず分断されたところのものと、いかにして和解すべきか。
最近、理研の理事長がSTAP細胞問題を振り返って、以下のようなことを言っていたのも象徴的だ。


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