「弱さをさらけ出せる強さ」について

「弱さをさらけ出せる強さ」とはよく巷で言われるが、弱さにはつけ入られるものである。だから、それをさらけ出せる時点で、かつて弱さであったそれは強味になっていなければ、社会的にも精神的にも自分自身がダメージを被りかねない。
弱さをさらけ出すメリットが無いなら、別に弱さを弱いままで人様にさらす必要は無いのである。

しかし、弱さをさらけ出せる強さに仕立て上げる以前に、本当の自分自身にしっかり向き合う作業が、最初にできていなければ、意味がない。
「弱さをさらけ出せる強さ」の本意は、「ありのまま素直な自分でいられる」ことだから、ありのままの自分が何だかわからない、自分を見失っている時点で「弱さをさらせ」とは思わない。

またしかし、自分の強味だと思っていたそれこそが、自分の弱点であった、ということもある。そんな時は、自分ではさらけ出すつもりがなくても、周りがその弱さに気づいている。
肝心なのは、自分自身の弱さを知っておくことであって、「さらけ出す」ことは、必要に応じてするかしないか決めればいいし、周りが「さらけ出す」ことを要求するのも、ある種の侵害行為の範疇かと思う。

でも、自分で「さらけ出す」ことができるくらい、ありのままの自分でいられる方が、渡世が楽なのは本当だ。
とにかく、本当の自分自身にしっかり向き合えるということが大切だろう。


自分をさらけ出したところで、この社会は実は、私そのものを望んでいるわけではないのである。「社会にとって好都合な私」こそが、社会に望まれるのである。
社会が勝手に、社会にとって都合の好いものを、私の引き出しから取り出して、通りすぎていく。場合によっては、引き出しに気づきもしない。
取説があっても、取説を熟読しない人も大勢いる中で、「私の取扱い説明書」のようなものを、いちいち大声で読み上げねばならないとすると、本当に大変だ。

社会の中で、私は、何気に自分を、ダリの「引き出しのあるミロのビーナス」と重ねてしまうのである。
私は、「そこに存る」だけで、これといって何かを説明しない。表向き、私はただの「引き出しのあるミロのビーナス」である。

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