前向きなセルフネグレクト

県が主催する就農塾に応募して、受講することになった。
農業はまったく初心者なのだが、自給自足に向けて、じりじりと僅かに前に進めているような気がする。
自給自足を志して田舎に引き篭もろうとするのは、今の社会ではちょっと前向きなセルフネグレクトと捉えられる感が否めない。しかし、社会が私を包摂してくれるのを待っていても、この国は明後日の方向を見ているので、期待するだけ無駄だろう。どちらかというと、社会を包摂してやっているのは、この私の方ではないか。

さて。



今、ねちねちと読み耽っている最中だが、ここへきてようやく、原始仏典に素直に寄り添える心境である。
原始仏典で釈迦が説く出家者とは、今でいうホームレスそのものではないかと思う。
私がそらんじることができるのは般若心経と観音経だけなのだが、この二つのお経から受けるイメージだけでは、釈迦の姿はイメージしづらい。「やさしい釈迦」のイメージは単なる先入観で、『スッタニパータ』を読んで浮かぶ釈迦の姿は、永遠に、自己を完全に破壊せしめようとする、ひじょうに厳しい姿である。

自己を完全に破壊せしめようとするのは、他を害さないため。それが永遠なのは、自己を完全に破壊するのに、途方もない時間を要するから、ついにはそれが永久運動となるため。それが永久運動であるがために、永遠の平和が構築される。この一連の発端は、そもそも慈悲心である。慈悲心のために、釈迦のイメージは「やさしい」ものに描かれるが、しかし釈迦が行ったのは、徹底した自己破壊、今でいうセルフネグレクトではないか。

ところで格差が叫ばれて久しいが、釈迦の時代の初期仏教の段階で既に、”世俗社会の階位的秩序あるいは勢力関係が出家者の教団の内部に入り込むおそれは存在していた”、という。その点は今にはじまったことではないと知ると、心なしかホッとする。現状の社会を「なぜ、どうして」と叫び、憂いて、思いつめる必要もない。

…昔は、欲と飢えと老いという三つの病があっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病が起こった。

このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀を行う人は理法に背いているのである。

このように昔からのこのつまらぬ習俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。

このように法が廃れたときに、隷民と庶民との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。

王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れを誇る議論を捨てて、欲望に支配されるに至った、と。

(小なる章〜「七、バラモンにふさわしいこと」より)

兎角、今日本は糞である。糞の自覚なく糞に居直るあたりが、またどうしようもない。
日本は糞なので、私は屁のようであろうと思う。その心は、固形物と違い、捉えることができない、いるかいないかわからない、気のせいかもしれない、そういう存在であった方が身は安全ということ。



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