『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』を観てきた

地方には、SEALDsを知らない人が、掃いて棄てるほどいる。
政治も民主主義も税金も貧困も、自分には関係のないことだと思っている人が、大勢いて、つつがなく日常を切り回している。
この国はそういった何も知らない人たちに支えられているらしい。

その何も知らなさにつけ入る国づくりが、国づくりになっていないことすら、知らない人たちは知る由もない。
選挙のことも、自治体の行政のことも、税金の基本的な仕組みもよく知らない、いい歳をした三十代の母親が、「とにかく、自分の税金がたくさん返ってくればいいんですよ」と、悪びれることなく言う。
公益性など念頭に無い、彼らの行動原理は、私益である目先の損得勘定だけ。

その、私益の損得勘定で、大勢の人の暮らしが破壊され、ようやく、自分の暮らしまで脅かされるところまできても、知らない人は何も知らないまま、知らされても知ろうともしない。

「目を覚ませ!」と声をあげた人々の声も虚しく、死んでいる人々は目覚めようもない。

ところで。



私もちょっと前まで、沖縄のことをまったく知らずに生きていた。
沖縄の出来事は、ひじょうに遠い、身に迫る出来事ではなかった。
しかし今は、この映画を、友だちの結婚を喜ぶ友人のような気持ちで観た。沖縄にルーツを持つ沖縄人は、本当に幸せな人たちだと、各地を転々と流れるボヘミアンな私には、眩しいほどに羨ましかった。

私は、シモーヌ・ヴェイユの言う「根こぎ」()に遭った者なのだと思う。慣れし故郷を放たれて夢に楽土を求めても、失った根は根付かせようもない。どこへ行こうと、土地の者から訝しがられる「よそ者」を演じつづけるだけである。
そこへいくと、沖縄人は還るべき魂の故郷をちゃんと持っていて、それを大事に大事に受け継いでいる。私が持ち得ない大切なもの、本来の「人間」の暮らし、不撓不屈の「人間」そのものを彼らは営んでいる。

私は、その営みの破壊に加担したくない。それをすれば、生まれてきたことを後悔するところまで堕ちるから。
営みの破壊に加担する警察と海保。国家権力が公然と行う犯罪に、営みを破壊される側が抗議し、立ち向かうのは、痒ければ掻くの如くに、ごくごく当たり前のこと。


いちばんいいのは、アメリカが戦争をやめることだ。
アメリカが戦争依存症を克服する手立てが、ゆくゆくは国際社会から提案されてくることを望む。
ただ、どれだけいい提案が出てきても、問題なのは、死んでいる人々は目覚めようもないということ。

それでも私は、沖縄人の勝利を、切に祈る。

コメント