「臨在感的把握」がわからない



「この地球と社会こそが魂の牢獄である」(

とした時に、「魂とは何か」と考えてみるか、あるいは「牢獄と思わせるものは何か」と考えてみるか、アプローチの仕方も色々あるが、この正月に読んだ山本七平の『「空気」の研究』は、アプローチの仕方としては後者だと思う。

「空気を読む」時の、あの「空気」の研究とともに、「日本における拘束の原理の解明」について書かれている、と思う。

山本七平(=イザヤ・ベンダサン)の著作が出回ったのは、私がまだ子どもの頃のことらしい。だから今回私が手に取った『空気の研究』も、いわば古典とか名作に属する書籍かもしれない。信奉者も多いらしく、何となく、正月の時間を持て余さずに済むだろうと手に取った割に、残念ながら、私とはあまり相性の好くない文章で、読み終えるのに難儀した。数学の証明問題なんかが得意な人には、面白いのかもしれない。キレイめのロジックで、ひじょうに狡猾な文章だが、邪悪なコンサバ系の日本人が悪用しそうな、危険なニオイもしなくはない内容だった。

正直、山本七平のいう「臨在感的把握」という言葉の画が浮かばない。多分、「臨在感的把握」という言葉が理解できてしまうような聡明さでもって、騙されにいくぐらいでないと、充実した読書にならないだろう。ところが、幸いというか、私にはなぜかこの人の言うことは、ところどころしか響かなかった。

ただ、私にこの「臨在感的把握」がわからないのも無理はないのかもしれない。



上のとおり、私は大人の事情に疎い大人である。
私に「臨在感的把握」がわからないのは、私が本音と建前を使い分けられる類の人ではないからだと、わかりかけてきた。
それは、山本七平のいう日本的空気から排除される「自由人」だから、ということでもあり、「キジも鳴かずば打たれまい」と皆から思われるような人柱的存在だということに他ならない。

私のようでない多くの日本人は、きっと「臨在感的把握」に深く共感し、納得するのだ。

ちなみに私は、「キジも鳴かずば打たれまい」の民話を小学校の道徳の授業で知った。
この物語が道徳の授業の教材として適当とされる風土、息の詰まるような「臨在感的把握」がすし詰めになった、これぞ日本てカンジですな。

母国との距離間 (2015年3月7日)

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