幸徳秋水の命日に

最近私は、更生保護の勉強のために刑務所や少年院の見学に訪れて、直に現場のお話を伺ってきたりなどしている。その国の人権状況を知るには、その国の刑務所を見るといいらしい。日本は、現場での改善の努力が伺えるとはいえ、マンパワーが足りない感も同時に伺えるのが、私の抱いた印象である。

恐らく、刑務所や少年院は今後、民間と提携して運営されていく方向だろう。そうなった時のマンパワーがどんなものか、まだ私にはよく見えてこない。幸徳秋水の時代からすれば、まったく明後日の方向だろう。




偶々、幸徳秋水の命日に『二十世紀の怪物 帝国主義』を読みはじめた。1月24日である。
”これ、本当に100年前に書かれたんですか?” 

と、本の帯にも書いてあるけれど、内容は特に目新しいことはなく、私が普段から眺めているネットに流れていることと、ほとんど変わらない。「これを書くと死刑になるのか」という感慨ぐらいなもので、してみると幸徳秋水の思想は、今では空気のような、ふつうの何でもないものとして、既に拡散されているのだろう。
むしろ目新しかったのは巻末の、三十九歳の幸徳秋水死刑直前、獄中にての絶筆である。
深淵に挑む心情が余すところなく、死生観の次に運命観を語ろうとしたところで筆が絶えている、という。

…今の私自身のとっては、死刑は何でもないのである。
私はどのようにしてこんな重罪を犯したのであるか。その公判でさえ傍聴を禁止された現在の状況にあっては、もとより十分にこれを言う自由を私は持っていない。…

死刑!私にはじつに自然な成り行きである。これでいいのである。

これは私の性質が獰猛であることによるのか。愚かであることによるのか。自分にはわからないが…

自分は死刑になる、何故かはわからないが。
この状況は、凄い人権侵害に遭っているではないか。
それでも、昨今のような死刑廃止論にまでは、幸徳秋水自身の思いも及んでいなかったようである。




私思うに、最も正しいのは、殺さず、殺されてしまうことだ。
この人間社会に正しい解答が見当たらないのは、昔々から正しい解答を知る人々が殺されてしまったからだ。
正しい解答は跡形無くもみ消され、間違った正解が流布されてしまったのだ。
元々おかしい社会におかしいのを上塗りして、正常を装うアホらしい営みが「生きる」ことで「喜ばしい」ならば、殺さず、殺されてしまうのもいいかもしれない。
しかし本当は、殺されてしまうことも、正しくはないのだ。
それで、いかにすべきか。

深淵での問いから見出した解答が正しいかどうか、その答え合わせをする時間が、死ぬまでにあると思うのだ。それが長いか短いかはわからないが。

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