立春に

節分だった昨日は、恵方巻をスーパーなどで目撃しただけで、買わなかった。いい気分だ。

「あの日から、お前、具合が悪いんじゃないか」とダンナが言う。
「あの日」とは、自治会の集会所に行った、二週間前のことである。

自治会の役員を強制されるのだが、集会所に行くと、巨大なプライムミニスターのキモいドアップのポスターが二枚も貼ってあり、場の空気が「臨在感的把握」()で汚染された強烈な自民臭を放っており、仕方なくその空気を嗅がざるを得なかった私は、胃の具合を悪くした。
集会所にあんなものを二枚も貼られてしまうのを許容する程度の自治会である。他の住人は何らかの利益を享受しているから、平気で独裁政権マンセーなのだろうが、低所得で何の恩恵も受けていない私があれにマンセーなわけがなかろう。

この地域の人、マジでキモい。

何の得もしない自治会の役員をやるのはいいとして、あの独裁政権政党のポスターから発せられる負の波長による健康被害を防ぐには、共産党のポスターがいいのか、山本太郎のポスターがいいのか。
独裁政権政党の「臨在感的把握」による同調圧力の精神的レイプを防ぐ策を万全にしておかないと、胃の具合どころではおさまらない。持病の癪に障りがある。

私の住むあたりの風土のアカアレルギーは相当ひどく、なぜそんなにも反共なのか、私には意味がわからなかった。私は共産趣味者ではあるが、共産主義者ではない。しかしそれにしても、反共という理念は、私の中には無かった。



共産主義とは、財産の一部または全部を人々の共有のものとし、階級と、階級間の搾取のない社会を作りだすという政治思想である。

では、どのようにそのような社会を作るのか。資本家をはじめとする特権階級は、労働者階級に同情し、自らの財産や特権を話し合いなどの平和的手段によって手放し、抑圧を止めることはあり得ないと考えられた。したがって、暴力革命によって労働者階級が特権階級を駆逐するしかないという立場を取るのが共産主義である。

リンク先の説明を読んで、なるほど、と思った。

しかし結局、この度この国で、すかしっ屁のような暴力革命を行ったのが、特権階級のこの独裁政権であった。非暴力の私のような人らに対して、シカトとネグレクトを行った。
国は守ってくれないのに国に守ってもらおうとする人らは、何を画策しているのだろう。
「国に対しては子が親を慕うように…云々」という保守の心情にはお近づきになれない。国は親ではないし。
国の役割が親に似たところがあるのはわかる。血縁の気に入った子は可愛がるけれど、どこの馬の骨かわからない子やナマイキなのは知ったこっちゃない。国のやることは親のエゴによく似ている。

昨今は移民や難民になって亡命しても「人道」にありつくのは、余程の運に恵まれていないと難しいようだ。
潤沢な袖の下を用意できない私は、亡命もできず、母国にネグられ、あるいは搾取される運命を甘受するのだな。
孤独も絶望も私の友だちだ。生まれてくるんじゃなかった。

色々と思いつめ易くなり、ダンナの言うとおり、具合が良くない。
気持ちのバランスを回復させるべく、今日は、新党ひとりひとりに寄付をした。
これは賽銭だ。祈りを行動に置き換えると、こうなるのだ。
政党に寄付をするのは初めてなので、どきどきした。

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