憲法のことなどをいろいろ考えた



昨日は岡山に行ってきた。フェリーの中から、父親の散骨したあたりを眺めてきた。(
岡山市立オリエント美術館の有頭鷲精霊像に魅せられた。これに呼ばれて岡山に来たのではないかと思った。ハガキやらグッズを買いまくって、危うく帰りの電車賃を使い込んで帰れなくなるところだった。

ISが破壊したアッシリアの遺跡から発掘された展示品を見ながら、かつていた大昔の人々の息吹を感じつつ、色々考えさせられた。

破壊によって古代の人々と対話する窓口が失われ続け、救いの無い歴史の暗闇に放り出されたような、えもいわれぬ虚無感を漂う私自身を実感していた。

歴史に名を刻まれ人生を謳歌する人の影で、自分の人生を生きることも叶わず早逝した人も、大勢いたのだろう。
彼らは今のこの時代を見て、何と言うだろう。

このまま憲法改正案が通れば、今まで私もブログで想定した最悪の事態が、そのまま現実になるのか。私も日本国憲法は一応、小学校六年生のときに全文書き取りをさせられたけれど、内容の詳細は私の記憶には刻まれていない。

あるいは、私が現在住む地域を見渡してみると、元々全体主義と親和しやすい人たちばかりのようなので、これまでと変わらず、何が変わったのかわからないまま、相変わらずの人も相当数いるかもしれない。あの人たちも多分、日本国憲法の詳しい内容は知らない。知っていても「知らぬ・存ぜぬ」で押し通し切るだろう。

それを見ていると、声を押し殺し、「知らぬ・存ぜぬ」で押し通し切る、心病んだマトモな人生を、死ぬまで営むという真っ当なルートが、憲法改正案後は妥当かもしれない。
そもそも、「知らぬ・存ぜぬ」の教育しか受けていない人々を相手に声を上げるのは、骨折り損でしかない。

しかし、骨折り損のくたびれ儲けでありながら、それ以外にできることがない、という場面もある。実際、私の暮らしの殆どがそれである。

私も、最も合理的な生業の手段を持てぬまま、この世とおさらばしてしまう可能性がある。
だから、諦めず骨を折る人々の、何か力になれたら、と思いつつ、思うばかりで、思うだけである。

正直なところ私は、骨を折り、闘う集団の中においてさえ、浮いて邪魔になって弾き出されてしまうようなところがある。

それはさて、日本国憲法の話に戻ろう。

実は、憲法も法律もよくわからない私は、日々の暮らしの中ではモーゼの十戒(仏教の在家の五戒とも重複する)を守って生きている。理由は、「それを守っていたら国家の法律にも抵触しない」と聞いたことがあったからである。難しい憲法を知らなくても、十戒を守り実践していたらいいなんて、超ミニマムである。

何より、唯一の神さんが下さった、普遍的なやつだから、安心安全である。
他の細部は暮らしの中で思考しつつ嗅ぎ分けるという、元々私はこうだし、これ以外の変更は私にはできないし。

全体主義になれば個人の自由も保障されないわけだが、私にとっての自由とはシモーヌ・ヴェイユが言っていた自由一択なので()、十戒によって既に日本国憲法がどうなろうと、自由の身であることは変わりない。殺されることはあるかもしれないが。

日本国憲法が改正されてしまうと、権力を縛るものだった憲法が国民を縛るものになり、個人は尊重されなくなり、全体主義マンセーの国になるだろう。
あと、憲法改正で認知症に罹る人が増えそうな気が、私にはするのである。


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