「殺生な」



先頃、電車内で二人のおバアが大声で身の上話をしているのを、私は聞くでなし、聞いていた。 おバアのひとりは、実の親に捨てられた戦争孤児だったが、収容され、里子に出され、義父母にとても大事に育ててもらったそうだ。

「人間、血の繋がりいうのは関係ないよ」…

戦争孤児の話は「殺生な」話ばかりであるが、すべてのオチが「殺生な」話でもない。悩ましきをいかにせんとて、これも語り尽くせぬ、捉えきれぬ人間の営みの細部のひとつなのだろうと思いつつ、その時はいい話を聞いた。

ちょうどその頃、私は宮本常一の『忘れられた子どもたち』を読んでいた。
いわゆる戦後までの時代の、子買い、間引き、口減らしなど、表に出すことが憚られるような情報でもある反面、祖先たちがいかに生き、いのちと向き合ってきたかを知る、貴重な手がかりともなる本である。

子どもの生肝を取って食う、というのは、明治初期あたりまでは実際にあった話だそうだ。


「殺生な」の文字どおり、本当にそう言いたくなる状況が、悪びれることなくまかり通っていた昔と比べて、児童憲章や児童虐待防止法が制定された今の時代が、良くなっているのかどうか、私には判断できない。なぜならこの時代にあって、私たちは子どもを諦めた夫婦であるから。

「あの時、少々生活が苦しくても、子どもをつくっておけばよかったね」

とは、今なお、残念ながら言えない。昨今の「#保育園落ちたの私だ」のムーブメントを眺めて、私たちを囲む社会は、その程度の環境である。

今の時代は、かつての「殺生な」時代の悲願が叶った時代でもあるが、引き換えに大事なものを失った時代でもあるような気が、私にはするのである。(あるいは、失ったと感じること自体も、気のせいかもしれないが、わからない。)


さて、かつての「殺生な」時代に、身寄りの無い、かわいそうな子どもを、老いた貧しい男が「何かの功徳があるだろうから」と、渾身に育て上げることもあったという。

こういうとき、功徳を求めるのが悪いことかどうか。もしもこれを「(功徳などという)見返りを求めやがって」と責めるとすれば、それはおそらく甘えであり傲慢だろう。一体、他者にどれだけの仏心を求めるのか。オノレのエゴを「功徳」という一種の気のせいのようなもので昇華できるのに、功徳を求めて何の悪いことがあろうか。

あるいは気のせいではなく、「功徳」は本当にあり得るのかもしれない。
今の時代が失ってしまった大事なもののひとつが、この「功徳」ではなかろうか。

「功徳」とは何であろうか。
そして気のせいとは、何であろうか。気のせいも、確かな感覚のひとつではないか。

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