私にできることは何だろうか

折しも7月10日の選挙を振り返りつつ、今しがた、今上天皇の「生前退位」の意向のニュースが流れてきた。
時代を背負い、平和憲法を一身に体現させる努力をなさった方だと思う。天皇どうこうというより、この時代を生きる一人の人として、私はそのお人柄をひじょうに敬愛している。



さて。

6月最後の週あたりから7月10日まで、私は仕事から帰ってくるなり、ネットの動画で選挙フェスを欠かさず楽しんでいた。
選挙フェスが終わり、私は山本太郎を応援する者として何ができるのかを、真剣に考えなければならないと、しみじみと思った。

私は山本太郎をひとりにしてはいけないと思った。
そして山本太郎のヴァージョンアップを夢見た。
山本太郎と三宅洋平が合体して阿修羅のように一身の体勢となるのが望ましい、と思った。

しかし、富と権力からあまりにも遠いところの、何ら影響力を持たないひとりとして、むしろ、私のような者が山本太郎を応援することは、逆応援、つまり山本太郎の活動の妨げにしかならないのではないか、応援するならむしろ、黙って見守るのがベストなのではないか、とも思った。なぜなら、私のような不幸を背負った低血圧の貧乏神は、様々なアツい運動群から、浮いて、はじき出されるのが常である。

しかし、そうでありながら、山本太郎と三宅洋平のアジェンタは、この私の思いをも包含する、優しさに溢れた、それでいて実現可能なビジョンを明らかに描いていた。

私は心から山本太郎と三宅洋平を「応援したい」と思った。しがらみによる義務感など無かった。

では一体、私にできることは何だろうか。

この呪われた我が身は、もしかすると、むしろ逆に自民やら保守やら、救いがたい、詐欺師や盗人の手先である呪われた連中に取り憑いてやった方がいいのかもしれない。
しかし、それもしかねるのが正直な気持ちである。連中は酷い嘘つきなので、気持ちが悪いからである。

私の住んでいるあたりは地域一帯、職場まで、一丸となったキモい自民系で、私は今なお本当に、生きづらいことこの上ないのである。
意味もわからず、しがらみとムードだけで人権侵害を容認できてしまう、軽蔑すべき「事なかれ主義」のグルーヴ感が、地域を、市を、県をまとめているのである。この地域の人は、しがらみとムードに自らの意思の決定権を委ねて、現行の政策に「酷い」とも何も感じないことを良しとする、こんなにも自分を大切にしない人々を、私が大切にする理由が無いのである。

しかし、日本にいる限り、どこに行こうと大方そういうカンジであろう。

せいぜいできることは、ムダとは知りながら、当選するはずのない共産党の議員に投票したり、一矢報わんと、比例区には黒の油性ペンで「福島みずほ」と、地域の皆が嫌がる名前を魔除けのごとくに念じつつしっかりと書くぐらいである。

私は、私の思いが国政に反映されないのを見届けるために選挙に行っている。

山本太郎が本来の持ち場を離れて政治家をやっているという異常。
私は絶望に慣れているし、人間に期待もしない。
だから山本太郎にも期待はしないが、活躍を心から願う。何があっても「裏切った」と責めはしない。
山本太郎が無事に、また本業に戻れることを、心から願っている。
その時には、積み重ねた濃い感情体験が、山本太郎を更に深く熟成させているだろう。

山本太郎が総理大臣で、三宅洋平が外務大臣。
素晴らしい、いい夢を見せてもらった。
夢を叶えるよりも、まずはふたりとも健康であってほしいと願う。


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