この社会から抜けたい

およそこの一年、私が黙りこくっていたのは、暴力のために感性が壊死していたからだ。

暴政とか民主主義の死とかアベ政治を許さないとか、果たされない約束とか信頼の喪失とか相対的貧困の状態とか、無関心とか同調圧力とか排除とか絶望とか、大事なものもそうでないものも手放して横目で見ながら、私はガラガラと崩れ落ち、変態に変態を重ねて、流されまいとするより流されてみて、そうして今に至る。

時代の地殻変動は、社会による個人への暴力の姿をしているのかもしれない。不覚にもこの暴力は、私にこれまでブログを更新させない程度の沈黙を強いた。

私は、この社会を前向きに構成する浮薄な人々を、心から信じていない。なぜなら、信じられないからである。ごくごく自然なことである。
この見えない暴力に満ちた社会で、幸せを謳歌することは不可能で、強いて幸せになりたいのであれば、暴力の前に沈黙してはならない。
それでも暴力の暴力たる所以は、暴力が発動されたそのとき、無化し静まり返る、それが暴力だから、やむを得ない。

もうそろそろ、私はこの暴力を、無視できなくなってきた。この社会が「健全に」回りつづける限り、暴力は止まない。この社会の不健全さに、社会を構成する浮薄な人々が目を逸らし、逸らされ続ける限り、この暴力は「やむをえない」などとされ、止むことなく繰り返される。

その状態に飽きてきた。この社会に満足しようという人々に、辟易としてきた。私はもう我慢がならない。

ダンナが失業して一年。失業保険も、もう出ない。
頑張っても、人生、まぁこんなもんだ。

この社会から抜けたい。

私はワキガで、私のワキの下からは死んだ父の臭いがするし、そのせいで他人に不快な思いをさせるのは嫌だけれど、自分を殺して出勤してあげている。「仕事があるだけマシ」とは、実際、心にも無いことである。

新興宗教の教祖にでもなって、山に籠もって暮らしたい。
人間が嫌いだから、もうなるべく人間には接触したくない。
聖フランチェスコみたいに小鳥に説法しておれば、人間の信者も必要ない。

私の教会に、誰か訪れる者があれば「場踊り」と称してフリースタイルの舞踏を披露し歓待するものの、結局は訪れた者をどん引きさせて帰らせる。

真剣に、自分が教祖の新興宗教の教義をどうするか、考えると楽しい、今日この頃である。

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