どこに行っても日本の風景

随分ブログを書くことがご無沙汰になった。私自身、かなり老化か劣化していきている。十年前ブログをはじめた頃は文章を練るのに何の苦も無かった。自ら中二病の自覚のうえで、これといったタブーもなく、思う存分言論の自由を享受していた。
しかし、書き続けているうちに、少しずつ賢くなってきてしまったのか、それ以上に状況が変わってきたからか、言葉選びにためらったり、あるいはなかなかしっくり腑に落ちる物言いができなかったり、我ながら、つまらない人間になったと思う。

さて、なんとか移住を果たして、私は近くの縫製工場に入った。
複数人とのチームワークと監視の中で働くのは得意ではない手前勝手な性分ゆえに、しばらくして、ルーチンワークの中でふと以前の暮らしが懐かしくなってきた。以前は、訪問介護事業所でも洋服のお直しでも、本人の裁量の部分がかなりあった。今はすべて指示待ちで動くうえに、やたらと「協調性」や「迷惑をかけない」などの要請が増えて、現在私は若干生気を失っている。

「協調性」とは何であろうか。「ひとりだけ変わったことをしない」とはどういうことであろうか。ひとりだけ変わったことをしていないように見せる配慮を要請されているということでいいのだろうか。と、考えたところで私には分かるまい。

そうして「協調性」などを棚上げしていると、次は「信頼を得て」「皆にかわいがられるように」とハードルを上げてこられる。「皆にかわいがられる」なんて、そんな高度な目標設定されてしまうと、仕事ができなくなってしまう。
そもそも「経営者とは銭ゲバである」前提を肝に銘じて、雇われた私は仕事中は作業のみに専念しておれば、これら一切の贅沢な要求もいずれ雲散霧消するであろう。よほどこの職場と縁が無いのでなければ。

と思いつつも、以前働いていた訪問介護事業所から、先月の給料の振込みがあったので、メールで近況を伝えた。

ご無沙汰しています。
仕事が辛くて、気弱に以前の暮らしが懐かしく思えた、ちょうどその時分でした。

いかにも日本的な同調圧力に、「チームに迷惑をかけるな」という体育会系のルールが加わり、茶番と割りきりつつ和気あいあいとしていなければならない。

しかし最近、あまり好きでない人と話すとき「鳩山由紀夫になったつもりで対応する」という魔法を思いつきました。
そうすると、敬意と忍辱と礼節を自由自在に醸し出して、苦手な人との軋轢を未然に防ぐことができ、ねちねちいじめてくる人も愉快に思えてくる。

「私今鳩山由紀夫だから、何言われても全然平気」

という心の余裕が、私の心を強くしてくれます。
辛くあたられているとき、私が鳩山由紀夫であることを、誰も気づかないのが、また愉快です。
そんな風に、「友愛」の精神で絶望を友に変え、苦難を凌げる私は、きっと幸せ者なのだと思います。

「あまり辛かったら辞めてもいいよ」とダンナが言ってくれているのも、救いになります。

かなりヤバい、でも元から私はヤバかった。何より、こういうわけのわからないことを表出できなくなる方が危険だ。
なぜそこで鳩山由紀夫なのか、ただ今はそうしたら色々とうまくいった。他の人になってもいいのかもしれないが、適当な人物が思い当たらない。社会性を維持するために、鳩山由紀夫にでも何にでもなるのである。協調性に欠ける私は、これほどまでに努力して、納税義務を怠らず、世間様の要請に応じ続けている優良障害者である。
それにしても、こんなメールをちゃんと受け止めて、「帰ってこい」と言ってくれる仲間に出会えた、私は幸せ者である。

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